私は男だけど、割とよく涙を流す方である。
感動した時やいい話には弱くて、ポジティブな意味の涙を良く流す。
悔しい時も、多分男性の中では涙を流す方になると思う。
悲しい時やつらい時などのネガティブな意味の涙を流すのは不得意で、泣きたいと思った時もプライドが邪魔するのか、涙は出ない。
あまり人の前で泣くことはないけど、基本的には涙をあまり我慢したくない。
一人でいる時は、むしろ積極的に泣くことすらあるくらいで、人の「泣く」という行為には色色な意味があるから、ちょっと「涙」について今回は書きたくなった。
いつも以上にコラム色の強い内容になると思うので、お時間があればお付き合いを。
このブログに辿り着く人は恋愛で何かがあったかな?
もし大好きな人とお別れしたのなら、涙をたくさん流すといいよ。
涙の成分は「溢れた感情」だから、たくさん流すときっと楽になれると思う。
高2の時大好きだったバスケをやめようとした試合の後で流した涙が止まらなかった
「涙」について深く考えた記憶の一番奥にあるのが見出しに書いたこと。
自分で自分の涙の意味が分からなくてただただ溢れる涙を抑えられなかった。
当時、身長の関係で私は先輩の中に混じってレギュラーで公式戦に出ていた。
やめようと思ったのはこの試合の数か月前で、ある事情があって先輩の引退試合までは責任上、バスケを続けようと決めて、負けるまで引退試合のつもりで試合に臨んでた。
(結局、やめるのやめてスラムダンクみたいなドラマがあったんだけどね)
負けた試合は1点差。
ミスはたくさんしたし、悔やみ出したらキリがなくて、それは皆同じだったから試合に出た人みんなで泣いていた。
でも、先輩は引退だからわんわん泣くとして、私はハタからみたら「何でそこまで泣いているの?」って状態。
来年があるでしょ!って見方をされていた。
誰にもやめるとは言ってなかったから、心配されたのを思い出す。
考えて考えた結果だったから私は納得していたはずだし、とにかく止まらない涙に一番戸惑っていたのは自分だった。とめようとは思わなかったんだけど。
カッコ書きで書いた通り、結局はやめるのをやめて、スラムダンクに出てくる儀式みたいなことをやって復帰するんだけど、そのきっかけは間違いなく「溢れた涙の量」だったと思う。
なんか客観的に「半端じゃねーや。バスケ愛」って思っていた。
完全に予想を越えていたのに驚いた。
それでもやめるって言いに行ったのはその時「男らしさ」を勘違いしていたから。
まだ若かった。
涙はきっと言葉にもならない感情が溢れてくるのだと思う。
悲しいか嬉しいかは関係なくて、気持ちがあふれた時にそれが「涙」として出てくる。
バスケやめようと思っていた試合で負けた時、「悲しいの?」「悔しいの?」って聞かれても答えることはできなかったんじゃんないかな。溢れるから仕方ないし、少しスッキリする感覚もあって、とにかく戸惑っていた。
後から気付いたけど、「涙って感情が溢れて流れるんだな」って思った最初の記憶。
「そうか、わたしずっと泣きたかったんだ」って歌詞
ドリカムの「好き」に出てくる歌詞。
これを思う時って、私はもう数百回ある。
泣きすぎでしょ?
始めに言ったように私は泣くのが好きだから。
何か色々と煮詰まったなら、泣くといいよ。
楽になれるから。
「そうか、わたしずっと泣きたかったんだ」って思う時があると思う。
問題に向き合うことは大切なことだし、悲しいことでも悔しいことでもつらい時でも現実から無条件に逃げ出すことはあまり正しいことではないけど、自分から自分を追い込むことは無い。
溢れるほどの感情を持ったなら、ちゃんと流しておかないと、追い込まれて考えることはそれこそ精度が低くなるかなと思う時がある。
自分のキャパの一歩手前。
そこで踏み止まるのも、一つの生きる技術かもね。
恋愛で泣いたのは長く付き合った彼女との別れの時
「悲しい時は泣くといい」と言いながら悲しい時に泣くのはあまり得意じゃない。
男だから、弱みを見せるような意味で涙を流したくないのだと思う。
泣いている時点でカッコ悪いのかもしれないけれど、そういう価値観ではないから、ちょっと伝えにくい部分。
それでも恋愛に絡むことで、声をあげて泣いたことがあった。
これも自分で驚くくらい取り乱して、本当にビックリした経験だった。
自分から振ったのに。
この時も「悲しかった」わけではないのかもしれない。
振るだけの理由があったし、もうとっくに男女としては終わっていたから、純粋に「別れ」が人と人として悲しかったのはあったけど、「別れ」って多くの場合で「次のステージに進む」意味を持っていることが多いから、「悲しみ」とはちょっと違った感情かなって。
この別れ自体は、きっと前向きな別れだった。
「別れよう」
自分から言ったその言葉が、空気を通じてか、骨を通じてか、自分の耳に聞こえてきた時、次の言葉はもう続けられなくなった。
完全に予想外の展開で、彼女のうろたえ振りは今でもはっきり覚えているほど。
ありえないでしょ。振られた相手を励まさないといけないなんて。
大人の男性が声をあげてわんわん泣いている姿を見るのは、きっとあの子の最初で最後の体験になるのかな。
数年付き合っていたから色々歴史があった。
そっちが大きくて泣いていたのは覚えている。
やっぱりカップルとしてはもっと昔に終わっていたんだな。
長く付き合うと恋愛感情だけで一緒にいるわけではないよね。
でも、こんな諸々のことが「涙」によって気付かされた面がある。
この時も涙と一緒に流れて行ったのが、きっと感情だった。
その彼女の目の前であり得ないほどの涙を流すその行為は、きっと必要なものだったんだ。
しばらく時間が経ってからは、そんなことも考えていた。
彼女の涙を見て別れを踏み止まった数は一体いくつあるだろう
「自分のために今泣いてくれる人が何人いますか?」
これがゼロになると生きる意味を考えるかもしれない。
もちろん一つの視点から発せられている質問だけど、自分のために涙を流してくれる人はきっと自分を大切に思ってくれている人。
これはゼロにしてはいけないよね。
女の涙は武器だっていうけど、あからさまな嘘泣きは見破れるとして、微妙なものは全て「本気」として受け止めるから、別れ話に泣かれて縋られると、別れることができない性格だった。
今もかな。
これも「優しさ」を勘違いしているよね。
結局どこかで決断するんだけど、踏み止まるその瞬間は、自分のためにそこまで泣いている人を失いたくないと思ってしまうのだから、タチが悪かったと言わざるを得ない。
泣き虫だけど、誰かの涙の価値はすごく高いのだから、少し矛盾しているのかも。
好きな人はいつでも抱きしめられる自分でいたい。言葉よりも大切な気持ちを伝える手段はたくさんあるのだと思う。
感動した時の涙はいつも流せる自分でいたい
涙の成分が「感情」でできているなら、感動して流す涙は枯らしたくない。
日常にそれだけ心が揺れる瞬間があった方が人生はそれだけ豊かになるかなって思うから。
感受性が豊かだと傷付くことが増えるけど、その分人には優しくなれる。
他人の気持ちが分かることは大事なことだし、自分がされて嫌なことは他人にしないことが人付き合いの根本だとすれば、きっと大事なこと。
それがネガティブなことであっても同じだと思っている。
感動した時、素直に泣ける自分でいたい。
その涙を我慢する必要のない人間関係に包まれていたなら幸せだと思う。
「〇〇は泣き虫だ」
って言った人がいたけど、それだけ心が揺れる日常が送れていたのは誇りに思ったし、カッコ付けなくて良い人間関係を築けていたのも嬉しかった。
カッコ悪いのは涙の意味がそうであった時だし、「涙を流す」そのことではないと思っている。
1ヶ月涙を流さない生活を送ると、ハッとすることがある。
泣くほどの悲しいこと、悔しいことがなかったのは良いことだけど、感動したこと、嬉しいことがなかったことが何だか寂しいと感じる。
久しぶりに泣いた時は、「前はいつ泣いたんだっけ?」って、そんなことが良く浮かぶ。
涙はたくさん流すといいよ、楽になれるから
泣くとスッキリするのは、溢れた感情が自分を軽くする意味も大きいけど、実際に体が疲れるのも大きい。
途端に眠くなって、布団に入ると脱力感も心地いい。
涙の効果を調べて、少し論理的に説明したいとも思ったけど、途中で止めてしまった。
今回には合わないかなって。
何かがあって、煮詰まってしまったなら、自分からでも泣いたらいい。
きっと楽になれるし、泣いている間に答えが出ること、考えがまとまることもある。
張りつめた糸が切れるように、投げやりに考えるべきではないよね。
一歩手前。
一人で泣いていても誰も見ていないのだから、自分には素直でいるといいと思う。
全ての経験が無条件に自分のためになるわけではないと思うけど、自分のためにしていくことはできるはず。
無駄を無駄にするのは自分。
ただ忘れようして泣くでもいいけど、スッキリした後は、もう少し考えてみてもいいかもしれない。
まとめ
今回は、「涙」について、あれこれ経験談と共に私の考え方をつらつらと綴ってみた。
ちょっと毛色の違う記事になってしまったけど、あなたに取って「涙」「泣く意味」ってどんなことだろう。
同じようによく泣く男の人もいるだろうか。
悲しみもそうだし、もし溜まってしまったものがあるなら、あまり涙を我慢することなく、枯れるまで泣いてみるのもあらゆる意味で次につながってくると思うから、男性・女性に関わらず、たまには涙を流してみよう。
それが感動だったり、嬉しいことがきっかけならもっと素晴らしいけど、そうじゃなくても心が動くのは生きてる証拠みたいなものだと思う。
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